昭和45年12月24日 朝の御理解
御理解 第98節
「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」
落ち着いてしかも平静、いわゆる平気でなからなければならん。神様に向かうというか、神様と相対するという時。神様に相対する時の、いわゆる心掛けなのです。心は神信心の定規じゃと。だから心は是は神様に相対する時だけではない。人に相対する時または事柄に相対する時。私はこの平気な心いわゆる、平静な心いわゆる平静心、または落ち着いてという事は、大事だとこう思う。
いつも自分の心というものを定規にかけておく。こういう平静な心の時ならば 人にものを言うても、人にこりを積ませたり、人に嫌な思いをさせる様な事はないなと言う様にね。やはり自分の心というものが、平静定規に計って居る様な心掛け心持ちが必要なんです。自分の心の中には、汚い物もなからなければ邪気もないように思うて、しかも言葉には優しゅう、又は毅然として立派に言うた積りである。
けれどもその心というものを、もっともっと検討してみるとです。あぁこれは汚い心がそう言わしめた。自分のずるい心がそう言わしめた。いや相手を責める心がそう言わしめたと言う事になっておるのに驚きます。人に相対したのが私はもう本当にその人の事を思うて、ただ美しい心でこう言うた。ところが相手の人はそれを勘違いしたのか、その反対に受け取って腹立てたと。と言う様な時ですよね、自分の心というものを矢張り一遍定規に計ってみるがいい。その人を責める心はなかっただろうか。
いや自分の心の中に汚い心はなかっただろうか。ずるい自分の心がなかっただろうかと検討してみて、驚くぐらいあるのに驚きます。だから言葉に出ておるとこだけを、人に聞かせたら、そりゃああなたが良かち言うごとある。けれども良うなかった証拠に、相手が腹かいておるじゃないの。そこんところをです、私は今日は神信心の定規じゃによってと。だから、神様に相対するという時の姿勢であり、心掛けである。
取分けお伺いをすると言った様な時、神様とお話し合いでもしようかと言う事である。こちらが平静心でない。取分け平気でありしかも静かで静かに願えとこう仰る。ですから是は例え私共、そこに神の声を聞こうと願っておるのである、そこに神の姿をいつも見たいと思うておるのである。だからそこに相対しておる人がそのまま神様の姿であり、相対しておる人が言うておる事が、そのまま神様の言葉として頂くべきだ。
厳密に私はそう言うとそうなんです。本当にそこに神の姿を見、そこに神の声を聞こうとする、その意欲に燃えた信心をしておるなら、そこまで私は徹底しなければ駄目だと、こう思う。あぁあれは子供の言よる事じゃないな、あれは誰が言よる事じゃないな、神様の声として頂く。してみるとほんなら神様へ相対する、神様へ向かう時お伺いをする時人にものを言う時。いかに平静心所謂平気、または静かな心であるかないかを確かめて、また確かめた上にも、そこん所のおかげを頂かなきゃならんという事を思う。
ですから今日の場合は神様にほんなら、皆さんが御祈念をなさる。そん時に例えばお伺いの稽古でもなさる。私はねやっぱりそういう稽古が必要だと思うんですよ、生きた神様ですもの。こちらが生きた心で向や、生きてちゃんと応えて下さる。それを例えば始めの場合はです、ただ心の中に浮かん出来たとか、と言った様な所で答えが出てくるでしょうね。又は答えて下さる所謂平静で静かな時、私は一番初めにそういう一つの霊徳に触れる、有り難さを覚え感じさせて頂く頃は、お伺いをする時には必ず眠ったです。
神様にお伺いをさせて頂いてね、ちょっと壁に寄り掛かって、その時分は横になって寝らないちいう様なな修行をさせて貰いよった。ですからちょっとこう壁に寄り掛かっただけで、もうすぐ眠りよった。そすとね今お伺いした事のね、ご返事がすぐお夢の中に出てくるんです。だから私がいつも皆さんにいう様に、お夢ってあだやおろかを見ちゃならんと。二代金光様、四神様も夢でもあだや愚かに見るな、雑音は疲れる。だからどうぞ御神夢を頂かせて下さいと言うて、願って休めとこう仰る。
だから私は休みがけにですね、本当にどうぞ夢でも頂くなら御神夢を頂きたいとお願いし。休む時にどうぞ今日はもう一時間しか休まれませんから、二時間しか休まれませんから、どうぞと言うてですね、お願いをして休むと、きちっと起こして下さるんですよ。夕べなんか、私共は一時間しか休んどりません。ですからもう寝る時もそら芯からまんからお願いする。そすともうちょっと家のあちらの時計が、進んどったから三時半と思うて起きて来たらまだここは三時半前だった。
いつも清々しゅうおかげを頂いておる。ですからねそこには神様が答えて下さるのが分かるでしょうが。言葉じゃなく揺り動かして、いわば起こして下さったと言うても言い訳でしょ。皆さんが願わんから答えて下さらんのですよ。本気で願わんから。だからお夢の事でもそうです。休む時にですね自分がどうでも合点がいかん、分らないという様な時にはね。だから一偏お願いしたばってん頂かじゃった、二編お願いしたばってんこうと言わずにです。それを繰り返し繰り返し願う稽古をする。
信心の稽古をする事が、やっぱ必要なんです。眠っておる時ほど、静かで平静な事はないでしょうが。ですから神様が働きようありなさる。だからねちゃっとご返事くださるです。これはね不思議と思うほどしですよ。だからそういう事がね、段々稽古が出来てくるようになりますとね、信心が非常に楽しい、生き生きとしたものになります。本当に生きた神様と相対するという実感が非常に強うなってまいります。
矢張り信心の稽古は、そういう事に思うですね。夕べ遅うまで色々信心話をさせて頂いて、神徳と霊徳という事について、そのお茶頂きながら、色々お話させて頂いたんですけれども。ここでは神徳と霊徳というものを非常にはっきり区別しております。神徳ご神徳と受けると。昨日久富正義さんが、これは不思議なごとあるですばい、親先生私が、あそこは立派に、お庭を、久留米の大里先生が来て造っておられます。
ところがなかなか届かんのですよね、庭の手入れが、あまりに庭が見事にできとりますから。ところがその大里先生が、そのちょっとそこまで来たけん寄ったち言うて、言いなさる時は、絶対もう間違いなく庭を綺麗にお掃除しておる時です。しかも大里先生が甘い物がお好きだから、もう絶対甘い物があるち言うのです。だから正義さん庭ん事だけじゃなかよ、もう全ての事に、そういうおかげを頂くと言う事が信心、いわゆるお徳を受けていく事だと私は言うた。御神徳とはそう言う事なんです。
神様が先回りをしておかげ下さっておると言う様なおかげが御神徳。御霊徳というのは、さあ今日は大里が来るから、お掃除をしとけと言った様な事を、もしお知らせ頂くとするなら、それは御霊徳。だからこれは実を言うたら大した事じゃない。だから大した事じゃなくても、ご神徳を頂く為の一つ前提としてです、やはり霊徳にも触れなければならない。と言う風な話を聞いて頂いたわけなんです。
だから霊徳を受ける為にはです、勿論修行が必要ですけれども。そういう神様との交流をはかる、何かのそこに場をいつも求めておかなければならない。右にして良いか左にして良いか分からん時には、私の母は私共子供の時覚えとるです。こんくらいばっかりのこよりを作って、輪を作ってる。お神様のお三方にお供えしちゃるですもん。初めは何事じゃろかち思いよった。
そしてやっぱり神様にお伺いよるとですね。そして取らせて下さった輪ば、ほどいて見ると、右とか左とか自分で書いてあるとじゃから、それで決めよった様ですね、母は。だから、非常にそういう信心は低級である様にも思います。またそう言う事に終始したら、いうなら信心が邪道と言う事になるかもしれません。けれどもそれが真の信心、真の神徳のおかげを頂く為の過程であるとするならばね、迷いもまた精神の過程なのだと言う事になるわけです。
ですから今日私はここの98節をね、平気な心とか落ち着いて願えと。平静心というのは眠っておる時ほど、平静な事はないって言うてる。ですから眠った時に神様が、お伺いをした事を、ちょっとご返事くださる、夢の中で。そこに私も説明はできませんけれども、それはそれは、不思議な不思議な世界があることを、ここに感じんわけにはまいりません。これは、皆さんも、体験がおありになる事だと思うんですね。
ですからそういう稽古もまた、なされなければいけません。そこでですほんなら私共がです、神様に向うた時、神様にお伺いでもする時と同じようにです、これを事柄の場合に、事柄と相対した時、または人と相対した時。平静な心または静かな心を持ってです、いうなら、神様に通うような、相手の人に話せれる心の状態であるかどうかと言うことを、確かめてから言葉を、口を開かなきゃいけん。
と言うぐらいに、慎重に行けと言うわけです。ところがうかつにものを言います、どうか言いますよね。それこそその人の為んごと思うて言いますよね。そすと向こうが、ぽうんと腹かいたり、跳ね返ってきたり。そこでです自分の言うた事で、あの人腹かかっしゃったが、私の言うた事は、悪かでしょうかて言うて、お伺いをすると。そりゃあんたが言たつがほんなこつっち言うごたる
。けど自分自身です、その言うた事に対して、もういっちょ検討してみると、相手が腹かく、そういう邪気があったことを必ず悟ります。なるほど自分の心には、こげな汚ぃたな心がその中にあった。その心の中に相手を責めるような嫌な神様のお嫌いになる心があったんです。だから相手がプンとして腹かいたという事が分かるでしょう。だからそういう時にです平静な心、静かな心になってくるとですね。
例えば言わんで済む事も沢山あります。言うにしても、それはいわば穏やかに相手に響いていく事に違いありません。私がこうしてお話ししておるから私がそれが出来ておるかと言うと、私もそうなんです。同し事です。けれども私はそれにいつも取り組んで稽古をしておる。あ今の言葉は失敗の言葉であったなとすぐ詫びる。昨日久留米の竜さんが、ああして毎日、今、お母さんと二人お参りになります。
そりゃもう本当ね、もう本当にそれは、条件に及ばんごたるお母さんを、ずっと導いてきお参りされる。お母さんがぎりぎり、どうにもこうにも出来ん問題がいくつも重なっておったお母さんの方が。ところがそれを一つ一つおかげを頂いていかれます。それがねやっぱりあの竜さんです、いわゆる息子さんの方の、お母さんに話される具合が素晴らしい。一つもお母さんを責めてござらん。
一つもお母さんに言うてられる事の中に、汚いものがない。だからお母さんにそれが響いて行く。お母さんが素直に、だから着いてきなさる。だからおかげを受けるということになる。昨日もこれはお母さんとの問題じゃないですけれどもね、お客さんとの問題。もう丁度十五年間もうそれこそ、もう竜さんでなからなければならんというごと信用して、もうあんたに一切お任せすると言うて、自動車の事ならば。と。
言うて信用して頂いておる方の自動車を、お上げすることになっておられた。ところが、何かの調節が間違った。そしたらもうほんとに十五年間も、あがしこ信用してあがしこ竜さん、竜さんち言いござった人が、顔色変えて言わっしゃる事がですね。「もうあんたは見損うた」ち言わっしゃる。「もうあんたとだけは、やっぱ交際せん」もうそげな、もうそれは言うなら、悪口雑言じゃったげな。
そん時にね、先生私は一遍合楽の方を向きましたち言わっしゃった。素晴らしいと思った。もうそん時に、直ぐ、そりゃこうですよち言うて言わっしゃらじゃった訳です。一遍合楽の方ば向いてしたらね、もうそれこそ一遍で向こうに、ガブンて言われるような内容じゃったけれども、合楽のほうば向いて、神様に御祈念をさせて頂いたら、はぁこげん言わっしゃるとがほんなこっと思うたちこの人が。
これが普通で言うたら、「ねぇごつ言いよるの、あんたこうばの」ち言えれるような事でもです。相手がそのくそ味噌んごと言われるとを聞いてですね、なるほど言われる筈だというものを、自分の中に発見したわけなんです。だからそう言うて、平身低頭お詫びをしたとこう言う。そん時は、腹かきまわって帰らっしゃった。そこでその自動車が失敗に終わったから、その自動車と同じ物を、小倉にあるち言うことじゃから、小倉まで行って、まぁ自分が、それだけ犠牲になるというわけ、竜さんが。
だからそれを見てくれと言うて、わざわざ持って見せげ行きなさった所が、そげなもんにゃいかんち言うて気に入らじゃった。そう言うておるうちにですね、是は新車で丁度あの人達の言われるその安い金額から、また十万円安い新車があったち。けんそれを見せた所がもう飛びつくごと喜こばしゃった。そして色々考えたら私があんたにまぁあんまり浅ましい事を言うちからもう恥ずかしかち言うてから、お詫びに来らっしゃった。
しかもほらおかげで、中古よりかの新車ば、あんたしかも十万円も安うして買うち貰うちから有難い。勿論竜さんはその頃には、全然私利私欲は挟んじゃなかです。そこの所からですよね、そこの所から相手に喜ばれ相手から、それこそ今度反対に平身低頭お詫びされて、自分もおかげ頂いて良かった、しかも新車が売れたと言う事になった。もう本当に、竜さんあなたのごたる人ばぁっかりがおったら、世の中がどげん素晴らしい世の中になることじゃろか。
私が言うて昨日話を聞いてから申しました事でした。私は金光様のご信心はですね、教祖の神様ご自身がそういう生き方をなさった。人にものを言うでもほんなら平気な心所謂平静心、または静かな心そう言う時にしかものは言わんという様に。私はそういう生き方がある、またそういう生き方にならなければいけんて、私は思います金光様の御信心は。この人に相対する時それこそくそ味噌んごと言われる時、まぁ言い訳すりゃ言い訳は十分あるけれどもです、そりゃこうのと言う前に一遍、合楽の方に向かいました。
向き直ったち。そして成程言われる筈だというものを、自分の心に頂いたら、平身低頭お詫びをすることが、一生懸命にお詫びが出来たとこう言う。それでもそん時は承知せらっしゃれじゃった。所が次に起きてくるその事態がです。素晴らしい事になってきた。あちらも立ちゃ、こちらもあちらも喜んで貰えば、こちらも立つ様な問題になってきた。そして、相手に喜ばれて、十万円も安く買うたと言うて喜ばれて。
あん時は私があんまりあぁいうムキになって言うた事を堪えちくれんのと言うてお詫びをされたと。いいえ、そげな段じゃありまっせんと言うて まぁそういう立ち行きのいけれる道なんです、金光様の御信心ち言うのは。そこで、ほんなら自分の心を先ず平静心に持ってくる事に対して、または人に相対する場合です、私はそこん所が稽古だと思うですよね。本当に心は神信心をさせて頂きよる者の定規なんです。
だから是は神様に相対した時だけではない。昨日夜遅うまで、昨日はとにかく信心話ばかりで終わらせて頂いた。私もおかげ頂いたが、みんなもおかげ頂いたじゃろうとこう思います。あらこげな話は、ほんとこがしこいっちょ、眠かばってん辛抱してから、親先生にお付き合いしとるもんでなからにゃ頂かれんち、私は思うた。中で秋永先生がこういう事をいうております。
先日ある大変下手な先生のお話しを聞いた。もう座っとるばってん、足の痛うして痛うしてこたえん。あれは不思議ですね、もう有難い有難いという時には、足の痛かつも何かも覚えとらん。覚えんち言うが痛くない。ところがやっぱり、下手の長談義ち言うですかね、もう下手なお話を聞かせて頂きよったら、足が痛うしてこたえんげな。そん時にその、修行させて頂ておるとこう思うた。
以前なら横座りもしただろう、足を崩したかもしれない。だから修行と思わせて頂いたら痛くなかった。心をね平治な所に持っていく信心ごころに持って来た訳だ。平静心というのは信心ごころだと私思うんです。信心ごころになっとる時には、必ず心が平静で静かになっておる。信心ごころじゃないから、いかにも言葉のには優しゅう言よるごたるばってん、相手に剣になって向こうに突き刺す様事になって来ておる訳。
ところがちょっとあこれは修行とこう思わな。思わせて頂く時に痛い筈の膝が痛くなかったと。これだけはこの頃おかげ頂きよります。という話を先生しておりました。もうこれは信心の稽古をですね、本気でしておる人達の、いわば具体的なお話なんですよ、今日のお話は。私共は日々全ての事柄に直面する。そりゃいろんな人に相対する時、私共がそこで修行と思うたり、信心ごころを頂かせて貰うたり、喜びの心をそこに持って、その事に処して行く道。
そこから竜さんの、そのお話じゃないですけれども。相手も立ち自分も立ち、立つだけじゃない、それこそ相手にも、言うなら人間らしい心を呼び起こさせておる。お詫びをさせたり、喜ばせたりしておられる。あれがどうだろうか、十五年間もそうしてもう竜さんでなからにゃ出来んと言うて信用して頂いておったお客さんが、もうそれで、おそらく別れて、もうあげな奴はおらんと、両方が言い合って、あげな奴とは付き合わんというようなことになってくる。
そこにいわば平和が破壊するわけですね。信心とはそういう事でもそう言う様な場合でもです、そう言う様な場合でも、こちらの心が平静な心を持って、静かにそこん所に処していく時にです、相手も立ちゃこちらも立ち、しかも喜び合えれる。私は本当に竜さんのそのお話を、竜さんのあの口調で話される時に、こっちがお取次ぎさせて頂きよって、ありがたかごたる。
もう本当に竜さん、金光様のご信心させて頂くなら、そこば分からにゃいかんですもんねち言うてから、話したことでした。お詫びが言い合えれる、お礼が言い合えれる、ほらもうあん奴がおかげで損した。あん奴がおかげでこげな目に合うたと言うような世界が全然ない訳です。そういう生き方の中には。世界真の平和というようにですね、例えば、綺麗な事を願いよりましてもです。
まず自分の手元足元の所にです、そういう、言うならば、目の細いね、そういう信心の稽古が積み重ねられていくところに、自分の周囲、自分のお付き合いの関係の中に、そういう良い関係が生まれれてくる。それが、私は、金光大神の教えられた道を行じる。いわゆる、お道の信奉者としての本当の生き方。全ての事に実意を持ってと仰る。全てのことに実意な心を持ってと。
事に処していくという事を、今日は私は平静な心平静心を持って、または落ち着いて向かうという風に申しました。ここのところは神様へ向かって、直接神様との交流を計るというか、神様にお伺いを立てると言った様な時の心の状態ですけれども。こちらの方にある、その神様の姿、神の声もです、同じ意味あいに頂くならばです。神様にお伺いをするような時、相対するような思いで、人にも事柄にも処しさせて頂くところから、竜さんの例を取ってお話しを聞いて頂きましたですね。
どうぞ。